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なんともいえない良い匂いに誘われて意識が覚醒を始める。
なんだろう。ご飯?
久しく嗅ぐ事がない味噌の匂い。なんでだろう?
そう思いながら制服に着替えて居間へと下りる。
疑問はすぐに氷解した。
「ああ、眼が覚めたか。体の調子はどうだ? 良いのなら朝食にしよう」
・・・・・・こいつか。
なんということだろう。アーチャーは見事な朝食を用意して、あまつさえ紅茶を啜っていた。
しかも和食。アンタ、何者?
エプロンもなんか妙に似合ってるし・・・
「ふむ? いささか元気が足りないようだな。食べれないようなら無理にとはいわないが・・・」
味噌汁に魚の塩焼きにほうれん草のおひたし。とどめにどうやったらここまで美味しそうに炊けるのかわからない、ほっかほかの銀シャリ。
色々と言いたい事はあったがせっかく作ってくれたのだ。食べないというのは失礼というものだろう。
「いえ、いただくわ」
そう言って味噌汁を口に含む。
?!!
驚愕する。それは、今までに味わったことの無いほど洗練された味だった。たかが味噌汁がここまで美味しいとは。
が、わたしは顔には出さずにゆっくりと、だがしっかりと噛み締めてご飯を味わった。
ちらりとアーチャーの顔を盗み見る。
アーチャーは満足したように嬉しそうな顔で微笑んでいた。
・・・・・・
しまった、油断した。顔が少し赤くなっているのを自覚する。
どうしてこいつは、こうも無邪気な笑顔を出す事が出来るのだろうか。
ご飯を食べ終えると、アーチャーは紅茶を出して食器を台所へと下げていく。
・・・・・・畜生、負けた。美味しかった。
なんともいえない幸福感と敗北感を味わいながら紅茶を飲む。
だが、団欒もそれまでにしとかなくては。
アーチャーが台所から戻って来るのを待って切り出す。
「さて、落ち着いた所で今日の予定なんだけど。今日というか、今後の活動予定ね」
「ふむ。どうするのかね」
「この格好みてわからない? 登校するの」
「なに、学校に行くだと?」
「ええ。何か問題あるかしら、アーチャー」
「・・・・・・問題はないが、しかし、それは」
危険だ、と彼は言う。
だがわたしは自分の意見を曲げる気はなかった。
「いいアーチャー? わたしはマスターになったからって、今までの生活を変える気はないわ。それにマスター同士の戦いは人目を避けるモノでしょう? それなら人目につく学校にいれば、不意打ちされる事はまずないと思うけど」
そう言ったわたしの前でアーチャーはまたも悩みだした。
アーチャーの正体はいまだにわからないが、それでも一日一緒にいればそれなりに分かることもある。
彼はことさらにわたしの安全を気にかけてくれるのだ。
マスターとなったからには聖杯戦争が始まっていなかろうと危険は付き纏う。現に昨日も遠くからとはいえ監視はされていた。
マスターがいなくなれば現界する事ができなくなるサーヴァントとしては、マスターの身を案じるのは当然の反応なのかもしれない。
が、アーチャーの場合はいささか大げさなのではないだろうか。
アーチャーのそれは慎重というよりも、過保護という表現がぴったりなのである。
まさに度がすぎる心配ようだといえる。
「・・・・・・わかった。凛がそう決めたのであれば従おう。だが、霊体化して君の護衛はさせてもらう。まさか学校に行っている間はここに残れなどとは言うまいな」
無論、外出時は側にいてもらう。
この身はすでにマスターなのだ。一人でいることがどれほど危険であるかはわかっている。
「当たり前じゃない。学校に限らず、外に出る時は側にいてもらうからね」
そう言うと彼はほっとしたような顔になる。
・・・・・・やっぱり過保護だ。
「それを聞いて安心した。だが凛、物事には常に裏目が存在する。もしもの話だが、その安全な場所に敵がいたらどうする?」
? それって学校にマスターがいるかもしれないってこと?
「そんな事あるわけないじゃない。この町には魔術師の家系は遠坂と、あと一つしかないの。そのあと一つっていう家系は落ちぶれているし、マスターにもなってないし。それにね、もしもの話っていうのは、起きないからもしもの話なのよ」
「・・・君がそう言うのであればそうなのだろう。だが、何事にも例外は存在する。本来あり得ざる事が起こるのもまた運命だ。用心するに越したことはない」
アーチャーは最後までそんな事を言ってくれた。
◇
遅刻しそうな時間になったので、彼女を促して出発した。私は霊体となって彼女に寄り添う。
冬木の冬は暖かい。名前の由来は冬季が長い事にあるらしいが、実際には冬でも平均気温は比較的高く、2月でも余所の12月程度。
すごしやすい冬が過ぎたらいつのまにか春が来ているという、そんな街だ。
昨日も町を見て回ったが、あくまでも地形を把握するためだったので感傷に浸ることはなかった。
所々記憶と違うところがあったが、それでも誤差の範囲に留まるものだ。こうして改めて見ると、やはり懐かしく思う。
「驚いた。もしもの話ってホントにあるのね」
「ああ、私も驚いている。杞憂で済めば、と思っていたのだがな・・・」
学校にはなんとか時間前に着く事が出来た。まばらに登校する生徒に混じって正門をくぐり、そして気付いた。
学校の空間が歪んでいた。
実際に肉眼で視えるというものではないが、感の良い人間なら違和感を感じとるくらいは出来るだろう。
しかしこれは・・・
「空気が淀んでいるどころの話じゃない。これ、もう結界が張られてない?」
彼女も同じ考えに至ったようだ。
「そのようだな。だが、完全に出来ているというわけでもないようだ。まだ準備段階といった所だろう」
「ここまで派手にやるなんて、いったいどこの馬鹿よ」
「私に言われても困るのだが・・・・・・。それで、君はどうするのだね?」
「? どうするって、なにを?」
「この結界の事だよ。対策を打つのか、捨て置くのか、様子を見るのか・・・」
だが、返答は聞くまでもなかった。
「勿論、わたしのテリトリーでこんな下衆なモノ仕掛けたヤツなんて、問答無用でぶっ倒すだけよ」
◇
最後の授業が終わり、学校での学生としての時間も同時に終わりを迎える。
日が暮れて生徒が校内からいなくなるまで時間を潰し、私たちは行動を開始した。
結界の基点を探査し、可能であれば消去する。
校内を回り、幾つかあった基点に溜まった魔力を散らし、最後に私たちは屋上へと向かう。
基点を幾つか回るうちに、私たちは結界の正体を知った。
―――
結界とは、術者を守るものを指す。
元からその土地にあるものに手を加えて特定の領域を隔絶する。
その効果は、領域を人目につかないよう遮断する、そこでの魔術を制限するなど多岐にわたる。
その中でもっとも攻撃的な物が、結界内における生命活動の圧迫である。
学校に張られているのはその類だ。
しかも魂食い。人間の体を溶かして、滲み出る魂を強引に集めるものだ。
だが、そんなものは魔術師には効果がない。そんな事はこれを仕掛けたヤツも判っているだろう。
故に、この結界の標的はわたしではない。
信じがたい事だが学校の人間全てを標的としているのだ。
つまりこれは・・・
「アーチャー。貴方たちってそういうモノ?」
「・・・・・・ご推察の通りだ。我々は基本的に霊体だ。故に、精神と魂を栄養とする。栄養をとったところで能力に変わりはないが、魔力の貯蔵量はあがっていく。つまりタフになるのだ」
「―――マスターから提供される魔力だけじゃ足りないってコト?」
「足りなくはない。が、多いに越したこともない。実力で劣る場合他で補うのが戦争だ。そういった意味ではこれは効率がいいが・・・・・・気に入らんな」
「同感。・・・・・・さて、それじゃあ消そうか。無駄だろうけど、とりあえず邪魔をするぐらいにはなる」
左腕の魔術刻印から結界消去の一節を読み込み発動。
呪刻に魔力を流し込み働きを阻害する。
「なんだよ。消しちまうのか、もったいねえ」
だがそれは、飄々として、軽々しい、第三者の声によって阻まれた。
「―――!」
咄嗟に立ち上がり、振り返る。
そこには人を超越した存在。それが、こちら愉快気に見下ろしていた。
それからの行動は、ほとんど直感任せだった。
青身の男の旋風の様な一撃を、かろうじて回避して屋上から飛び降りる。
アーチャーの助けを借りて着地。間を置かず校庭へと疾走する。
あの狭い場所ではわたし達の長所を生かす事はできない。わたしとアーチャーの力を最大限に発揮する為には遮蔽物のない広い空間が必要だ。
「はっ、は―――!」
屋上から校庭まで、七秒とかからず走り抜ける。
距離にして百メートル以上、常人なら残像しか見えない速度。
けど、そんなものは、
「いや、本気でいい脚だ。ここで仕留めるのは、いささか勿体なさすぎるか」
サーヴァント相手には、なんの意味も持たなかった。
「アーチャー―――!」
わたしが後ろに引くのと同時に、前に出たアーチャーが実体化する。
曇天の夜。
アーチャーの手には、微かな月光を吸収する一振りの鞘に納まった刀があった。
「―――へえ」
男は、口元を嬉しそうに歪める。
「・・・・・・いいねぇ、そうこなくっちゃ。話が早いヤツは嫌いじゃあない」
ごう、という旋風。
・・・・・・それは屋上で振るわれた凶器、わたしを容赦なく殺しにきた、血のような真紅の槍―――
「ランサーの、サーヴァント―――」
「如何にも。そう言うアンタのサーヴァントはセイバー・・・・・・って感じじゃねえな。何者だ、テメエ」
先ほどまでの気軽さなど微塵もない。
獣の殺気を放つランサーに対して、アーチャーはあくまで無言。
「・・・・・・ふん。真っ当な一騎打ちをするタイプじゃねえなテメエは。って事はアーチャーか」
嘲る声にもアーチャーは答えない。
「・・・・・・いいぜ、好みじゃねえが出会ったからにはやるだけだ。そら、弓を出せよアーチャー。これでも礼は弁えているからな、それぐらいは待ってやる」
「――――――」
アーチャーは答えない。ただ無言で何かを待っている。
そう待っているのだ。ただ一言、わたしの言葉を。
「アーチャー」
近寄らずに、その背中に語りかける。
「手助けはしないわ。貴方の力、ここで見せて」
「―――ク」
それは笑い、だったのか。
わたしの言葉に答え、アーチャーは赤い弾丸となって疾走した。
◇
特殊な歩行法により一歩で最高速へと到達する。
刀は抜いていない。鞘に納めたまま一気にランサーへ肉薄する。
「―――バカが!」
迎え撃つは紅い閃光。
高速で突き出される槍を刀を納めている鞘で逸らす。
「ッ――――――!」
だが、それで足は止まってしまった。
「たわけ、弓兵風情が接近戦を挑んだな―――!」
その気性、烈火の如く。
ランサーはこちらの前進を許さず、自ら間合いを詰めてくる。
喉を、肩を、眉間を、心臓を、間隙なく貫こうとするランサーの槍はまさしく神速。
戻りの隙などあり得ない。残像さえ霞む高速の打突。
その全てを鞘で逸らし、弾く。
弾幕のようなランサーの打突の前に、刀を抜くことすらできない。
ならば、抜ける状態にするだけだ。
「ふ―――!」
眉間に迫る穂先を紙一重で回避し、ランサーへと踏み込む。
「―――」
「ぬっ―――!」
迎撃してくる一撃は先の打突よりも更に高速・・・!
前進する慣性を強引に留め、全力で死の一撃を逸らす。
息もつかせぬ連撃とは言うが、まさかこれ程とは。
槍の弾幕とも呼べるそれを後退しつつ捌く。それにより、わずかに間合が開く。
その間隙。
離れた間合を助走とし、更なる一撃を放ってくる。
嵐のような連撃はその繰り返しにすぎない。
が、それも際だてば神域の技。
それをただ防ぎ、回避し、逸らす。
動きの一歩先を読み、相手より先に動き対応する。
愚直なまでに鍛錬と実戦を重ねた末に持つに至った、心眼とも呼べる戦闘洞察力。
それが綱渡りの攻防を継続させる。
「―――!」
一際高い剣戟。
ランサーの槍は刀を手から弾く。
直線だけの打突から、一転して手首を払うなぎ払い。
予測していても直線の動きに慣らされた体では対処できない一撃。
「―――間抜け」
罵倒するランサーに躊躇はない。
―――
一瞬で勝敗を決するつもりか。
瞬間。
一息のうちに放たれたランサーの槍はまさしく閃光。
眉間、首筋、心臓を狙う三連撃。いずれもが必殺の急所。
素手で防ぐことなどまかり通らず、回避する事も到底不可能。
例え先の刀があったとしても、一刀では全てを防ぐことはできない。
―――
一刀ならば。
キィンッ!
聞こえるはずのない剣戟。
死の一撃を、月光を携えた刃が弾き流す・・・!
「―――!?」
手には再び刀が握られている。
先ほどと同じ黒塗りの鞘。
それから抜かれた刃が二撃を弾き返し、左手に残る鞘が残る一撃を弾き逸らす。
「ハ、弓兵風情が剣士の真似事とはな―――!」
ランサーの槍が奔る。
もはや生かさんとばかりに槍の速度はなお上がっていく。
「――――――」
それを鞘で受け、刀で弾き、身をかわして受け流す。
更に速度の上がった剣戟は僅かな時間に百合を超える。
その度に刀は手から弾かれ、次の瞬間には別の刀が顕現する。
それを幾度繰り返したか・・・
間合いが離れる。
仕切り直しをする為か、ランサーが大きく間合いを離す。
「・・・・・・二十七。それだけ弾き飛ばしてもまだ有るとはな」
苛立ち、呟くランサー。
だが、それは苛立ちというより困惑のようだ。
それもそうだろう。
本来、サーヴァントが持つ武器はただ一つ。英雄の頃に愛用した武具である。
それは真名と共に開放すれば、伝説上の奇跡を具現化する宝具。まさしく奥の手と呼べる存在。
そしてそれぞれが唯一無二。
私のように次から次へと出せるようなものではない。
「どうしたランサー、様子見とは君らしくないな。先ほどの勢いは何処にいった」
「・・・・・・チィ、狸が。減らず口を叩きやがるか」
ランサーの苛立ちはもっともだろう。
ランサーは槍兵として戦った。だというのにアーチャーであるわたしは剣士として戦い、それを凌いだ。
アーチャーとしての手の内をまったく見せていないのだ。
ランサーが鬼気迫るのも当然だろう。
「・・・・・・いいぜ、訊いてやるよ。テメエ、何処の英雄だ。それほどの武器を持った弓兵なぞ聞いた事がない」
「そういう君は判りやすいな。槍兵には最速の英雄が選ばれるというが、君はその中でも選りすぐりだ。これほどの槍手は世界に三人といまい。加えて、獣の如き敏捷さといえば恐らく一人」
「―――ほう。よく言ったアーチャー」
ランサーの腕が動く。
今までとは違い、一分の侮りもない構え。
槍の穂先は地上を穿つかのように下がり、ただその双眸だけがこちらを見据えている。
「――ならば喰らうか、我が必殺の一撃を」
「止めはしない。いずれ越えねばならぬ敵だ」
クッ、とランサーの体が沈む。
あの真紅の槍が奔ればそれは必ずわたしの心臓を貫くだろう。
因果を逆転し、”心臓を貫いた”という結果を先に出す呪いの槍。それはあらゆる過程を無視する回避不能の一撃。故に必殺。
それを防ぐには因果律を狂わすほどの幸運が必要だろう。
だが、あいにくと私は幸運には恵まれていない。
故に、あれを防ぐ術はない。
―――ならば、槍を使わせなければいい。
刀を鞘に納め腰溜めに構える。
軽く前傾姿勢をとり、足の筋肉をたわめて瞬発力を極限まで高める。
互いに必殺を狙う一撃は、
「――――――誰だ・・・・・・・・・・・・!!!!」
予期せぬ第三者の出現によって止められた。
ランサーから放たれていた鬼気が消える。
走り去っていく足音。
・・・・・・その後ろ姿は、間違いなく学生服だった。
「生徒・・・・・・!? まだ学校に残ってたの・・・・・・!?」
「そのようだな。おかげで命拾いしたが」
勝算がないわけではなかったが、それも低い賭けだった。よくて2割といったところか。
その2割を狙い打つ自信はあったが、分の悪い賭けに違いは無い。
だが、今はそれよりも・・・・・・
「凛。ランサーは今の人影を追っていったが、どうする?」「――――――」
彼女は顔面を蒼白にして絶句する。
「・・・・・・追ってアーチャー! わたしもすぐに追いつくから・・・・・・!」
だが、それもつかの間。
素早く思考を取り戻すと私に命を下す。
「了解した、マスター」
即座にランサーを追う。
だが、ここまで離されては間に合うまい。
あのランサーの敏捷性ならば、校舎にたどり着く前に人影を仕留めている可能性もある。
校舎に駆け込み、廊下を駆ける。
廊下の向こうに、窓から出るランサーの影が見えた。
だがそれよりも、漂う濃い血の匂いに私の意識は向いていた。
その匂いのもとに近づいていく。
赤毛の少年が、その胸に孔を開けて横たわっていた。
血は思ったよりも出てはいない。
槍の一撃は一瞬で心臓を破壊し、血が逆流する隙を与えなかった。
息もまだある。だが、最早助かるまい。
衛宮士郎は死ぬ。いくら体内に、聖剣の鞘があっても、一突きにされた心臓を甦らせる力はない。
ならば。
―――何故この私は生きてここに在るのだ・・・・・?
その謎を突き止めなくてはならない。死に瀕した私を救ったのは誰なのか。
それだけは確かめなければならなかった。
凛が追いついてくる。
彼女は影を一瞥すると、
「・・・・・・追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと、割が合わない」
そう、何かに耐えるように言った。
「――――――」
砕けた窓から夜の闇へと飛び出した。 遠くに見えるランサーの影は、弾丸のよう
な跳躍を繰り返し、すでに新都へ至る橋に達そうとしている。
ここまで離されてしまっては、追いつくことなどできはしない。今は道筋を覚えるだけでいい。
先ほどの廊下が見える辺りに移動した。何としても、見届けなくてはならない。
あの日から不思議に手放すことの出来なかった赤い石の意味。何故あの場にあったのか。それが不思議でならなかった。
もしやという思いはあった。だが仮説は仮説のまま、それはついに明かされることはなかった。
物陰から、彼女がいる廊下をうかがう。
彼女は何か二、三言呟いていてその場にしゃがみ込んだ。光の加減で表情までは見えなかった。
彼女は胸からぐいっと取り出した赤いペンダントを力任せに引きちぎり、手をかざす。詠唱はただの一小節だった。
膨大な魔力をまとった赤い光が、死に際の男の体に吸い込まれていった。
たかが一分にも満たない時間。しかし、それは私に大きな衝撃を与えていた。
「ああ、そうか。私は君に命を救われたのだな」
彼女は苦笑いをしていた。見下ろしながら、満足気に――しょうがないなとばかりに、苦笑いをしているのだ。
仮説はこの時をもって信実となった。
遠坂凛は、衛宮士郎の命を助けてくれた。だというのに、その素振りさえ見せることはなく、彼女は幾度となく衛宮士郎に手を貸す。
それは、どうすれば返済できるか想像することもできない、とんでもない負債だった。
「―――まったく。敵わないな、君には」
本当に敵わない。どうやって報いたらいいのかもわからない。
どうしようもない愚か者で、いつも迷惑をかけっぱなしだった自分。
それでも、最後まで面倒を見てくれた師匠であり友人であった彼女。
そして今。
命を救ってくれた友人。
「―――誓おう。勝利を必ずその手に掴ませると」
◇
ただいまも言わずに家に上がって、ばふっとソファーに腰を下ろす。
アーチャーはまだ帰ってこない。
はあ、と気の抜けた溜息をついて、ぼんやりと時計の音を聞くこと数分。
「―――って、いいかげん頭を切り替えなくちゃ。あれだけの戦いを経験しておいて、なに惚けてるんだわたし」
シャキっと立ち上がって、とりあえず紅茶を淹れる。考えなくてはいけない事は山ほどあるのだ。
「――――――」
一人悶々と、これからの作戦予定表を組み立ててみる。
そうこうしているうちに時刻は十一時になり、アーチャーが帰ってきた。
「お帰りなさい。成果はどう?」
「・・・・・・すまない、失敗した。よほど用心深いマスターだったのだろう。少なくともこちら側の町には、ランサーのマスターはいなかった」
やっぱりそうか。
ランサーのマスターは直接戦いの場に顔を出すタイプではないようだ。
「そう。ま、そう簡単にはいかないわよね」
そう、すべて思い通りに行くなんて事はない。
だから仕方ない。
今夜の事は授業料と思って諦めよう。
「―――凛。先ほどの事を気にするなとは言わない。だが、一人で抱え込むのはやめてくれ。私は君のサーヴァントだ。マスターの苦痛を共に背負うのも責務。強くあるのはいいが、全てを抱え込むこともないだろう」
こちらの言葉に弱気を感じたのだろう。アーチャーがそんな事を言ってくる。
「・・・・・・ありがと」
気遣いは本当に嬉しい。だが、それに甘えるわけにもいかない。
「さて、ならば一息入れようか。七人目のマスターが現れるにせよ、それは今すぐという訳でも・・・・・・と、ちょっと待て凛。君、あの飾りはどうした」
「飾りって、ペンダントの事? ・・・・・・ああ、アレなら忘れてきちゃった。もう何の力もない物だし、別に必要ないでしょう?」
なんでアーチャーが石の事を知ってるのだろう。
少し疑問に思いながらもそう返答する。
「それはそうだが。・・・・・・君がそう言うならいいが」
「ええ。父さんの形見だけど、別に重いではアレだけって訳じゃない―――」
「―――よくはない。そこまで強くある事はないだろう、凛」
睨むようにそう言ったあと。
アーチャーは、学校に忘れてきたペンダントを取り出した。
「あ・・・・・・拾いにいってくれたんだ、アーチャー」
「・・・・・・もう忘れるな。それは凛にしか似合わない」
照れくさいのか、視線を逸らしてペンダントを手渡してくるアーチャー。
「―――そう。じゃ、ありがとう」
なんとなく受け取る。
正直、照れていいのかクールに流すべきなのか、わたしには分からなかった。
・・・・・・やっぱり、魔力は残っていない。
空になったそれは、ただ高価な宝石というだけだった。
でも、このペンダントに力は無くなっても、父がわたしに残したという意味だけは、まだ残っているのだろう。
それなら―――切り札と引き換えにアイツを助けた事も、本当に良かったと笑い飛ばせるかもしれない。
「―――って、待った」
アイツがわたしたちを見た以上、記憶をいじらないと危険だ。
なにより、ランサーはわたしたちとの戦いより目撃者の消去を優先した。
ということは―――
「―――そんなヤツ、生かしておかない―――」
ソファーから立ち上がる。
あれから三時間。間に合わないかもしれないけど。
夜を走る。
幸い、アイツの家は知っていた。
真っ直ぐ迷うことなく疾走する。
「―――それでは間に合うまい。私が跳ぼう」
「え、―――きゃっ!」
アーチャーがわたしを抱きかかえて跳んだ。
道を無視したその移動は、文字通り最短距離で目的地へと突き進む。
唐突に体を抱き上げられた事に対する不満はあったが、こっちの方が速いのも確か。
アーチャーに身をまかせてわたしたちは武家屋敷に辿り着く。
「ありがと。降ろして、アーチャー」
そう言って自ら降りる。
住宅地の端、郊外に近いこの屋敷は人気というものがない。
隣接した家も少なく、もし事が起きたとしても駆けつける人間はいないだろう。
「・・・・・・いる。ランサーのサーヴァント・・・・・・!」
気配は堀の向こうから。
「・・・・・・飛び越えて倒すしかない。その後のことはその時に考える―――!」
アーチャーに指示を送ろうとしたその時。
太陽が落ちたような白光が、屋敷の中から迸った。
ランサーというサーヴァントの力の波が、それを上回る力の波に消されていく。
「うそ―――」
「どうやら、七人目が現れたようだ。ついに数が揃ったぞ、凛」
落ち着いて言うアーチャー。
しかし、わたしは正常な判断力を失っていた。
ここまで予想外の事が立て続けに起こったのだ。
これで冷静にいる方がおかしいだろう。
「先ほど出て行ったのはランサー。ならばそれ以外のサーヴァントが召喚されたわけだが・・・」
傘のような雲が空を覆う。
明かりの無い郊外は一転して闇に閉ざされ。
そのサーヴァントは堀を飛び越え、疾風を伴って舞い降りてきた―――