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真っ暗な部屋の中。その主である男の寝息と、小さな目覚まし時計の針が進む音だけが聞こえている。
暗くてはっきりしないが、部屋の中はずいぶんと物が無い。部屋に住んでいるのはその男一人だけだが、それにしても部屋はとてもすっきりしている。整理整頓がうまいのか、それとも本当に物がないのか、この暗闇では判別できない。
ヂリガシャ!
枕元に置かれていた目覚まし時計。それは鳴った瞬間に、布団から伸びた男―エミヤ―の手によって止められた。その手に握られた時計の針を見てみよう。―――3時ジャスト。早すぎである。
『にわとり起こし』
『朝日に左右される男』
『日曜日の子供』
異名は数々。
彼はガバッとベッドから起き上がると、寝巻きからトレーニングウェアに着替えた。カーテンを開け外を軽く見回す。外は未だ闇に閉ざされ、日の昇る気配を見せはしない。当然日の光も入ってくるわけもないが、それでも部屋の電気を点けようとはしない。
部屋の中央で座禅を組み、日課となっている朝の瞑想を始める。
自身の魔術鍛錬と戦闘理論の組み立てを意識の中だけで幾重にも繰り返す。
目を開けて瞑想をやめると、部屋の隅においてある木刀を手にとり暗い外へと出る。
外に出ると肌寒い空気が顔を撫でる。暦の上ではすでに春だが、それでもまだ早朝は寒い。
冷たい空気を大きく吸い、ゆっくりと吐き出す。麻帆良は自然が多いためか空気が澄んでいる。そのためか朝起きたら深呼吸をするのが習慣になっていた。
軽く目を閉じ、そして開く。鍛錬の始まりである。
右手で木刀を持ち、それを振るう。ただがむしゃらに振るのではなく、明確な目的を持って振るう。
自身ならどう対処するか、どう攻めてくるか。それを常に考えながら鍛錬する。
木刀を振るうだけではなく、空いている手での掌打、蹴りなど。様々な技を一つの戦術として扱う。
それはまさしく完成しつくされた一つの戦闘体系。ただ相手を打倒することのみを考えて作られた闘争論理。
その動きは常に一対一ではなく、一対多を想定していた。
流れるようなその動きは、無骨ながらも一つの舞を連想させた。
エミヤが鍛錬を終える頃には日は随分と昇っていた。と言ってもまだ6時前だが。
エミヤは本日の予定について考えていた。
学園長から寮長をやれとは言われているが、基本的にエミヤはすることがない。朝食は生徒が各自で作っているのがほとんどだし、食堂を利用したとしても作っているのはエミヤではない。
寮の掃除もやはり生徒がやっているし、大きなところは業者を雇っている。エミヤの仕事といえば生徒の門限のチェックぐらいだろう。それとてあまり厳しくはやっていないが。
・・・・・・やはりやることがない。
改めてそう認識する。警備の仕事もあるにはあるが、それとて張っておいた結界が反応すれば出向くというだけのこと。あまり労力を使うものでもない。―――変質者の類が3日で20人を越えたのには驚いたものだが。
暇な時間は付近の散策に費やしているため、ある程度の顔なじみが商店街の方にできたが、それでも暇な事には変わりない。
ここにきて一週間ほどたっているが、それがエミヤの現状であった。
「む」
朝食を食べ、ゆっくりと食後の紅茶を楽しんでいると、無粋な事だが結界に反応があった。場所は女子中等部の付近。
少し考え、手に持ったティーカップを見る。中身はまだ半分以上も残っていた。
「・・・・・・」
それを未練がましく―本当に悲しそうに―見つめ、小さくため息をつく。
仕方がない、そう考えると
エミヤが紅茶をしぶしぶ諦めていたその頃、
大河内アキラと明石裕奈の二人は困っていた。
どのように困っていたかというと、
「いいから俺たちと遊ぼうぜ、お嬢ちゃんたちよ」
「だから、さっきから言ってるでしょ。私たちには学校があるんです!」
このように困っていた。
いわゆるナンパというヤツである。
町を出歩けば時々される事はあったが、さすがに登校中にされるとは二人とも思いもよらなかった。朝早いというのに元気な奴らである。
彼女たちをナンパしている男たちは、見た感じはチンピラ予備軍といったところ。
だが予備軍とはいえ、中学生にとっては限りない脅威だ。それも複数。
朝練のために早く学校に来たため、近くに人の通りは少ない。そしてその少ない人たちも、巻き込まれてはかなわないとばかりに彼女たちを避けて通っている。
「学校なんてサボっちまえよ。そんなのより俺たちと一緒にいる方が楽しいって。なあ?」
リーダーっぽい髪を茶色に染めた男が勝手な事を言い、周囲の男たちも笑いながらそれに同意した。
典型的な悪役の行動である。
「―――行こう、裕奈」
男たちを無視してアキラは裕奈の手を引いて学校へと歩き出す。が、それもすぐに止まった。
「つれねーなー。ちょっとくらい付き合ってくれるボランティア精神もねえのかよ」
リーダーがアキラの進路を塞いだのだ。
下卑た笑いをしながら男たちは彼女らを取り囲む。
それに裕奈は怯えた顔をし、それを見た男たちがさらに下卑た笑い声を上げる。
「そんなものはありません。他をあたってください」
アキラは気丈にもそう言い返し、裕奈の手を引いてリーダーの横を通り過ぎる。
「ちょっ、待てよ!」
「―――!」
リーダーが通り過ぎようとするアキラの手を掴む。
それを振り切ろうとして思い切り手を振り回す。
パンッと、乾いた音が鳴り響いた。
男の手を振り解いたそれは、勢いが余って男の顔を景気良くはたいたのだ。
「―――このクソ
激昂した男が手を振り上げる。
「―――!」
叩かれる、そう考えてアキラは反射的に目を瞑った。
体を丸めて予想される暴力に備える。
しかし、訪れるはずの痛みはいつまでたっても来ようとはしなかった。
恐る恐る目を開ける。
男の振り上げた手は、アキラに振り下ろされることなく止まっていた。
「んだよ、てめぇは!」
男の暴力を止めたのは、また別の腕だった。
男の背後から伸ばされた手は、振り上げられた手の中ほどを掴んでいた。
「大丈夫かね? アキラくん、裕奈くん」
男の暴力を止めたのは黒いトレーニングウェアを着た白髪の男性だった。
アキラを殴ろうとした男の言葉を完全に無視して、男性は裕奈たちに声をかける。
「ふむ、見たところ怪我はないようだな。ところで君たちは」
「無視すんじゃねえ!!」
きっぱりと無視された男が掴まれた腕を振り払い、振り向き様に男性へと殴りかかる。
男性が殴り倒されるのを予想して裕奈は目を瞑った。
「がっ―――!」
しかし地面に倒れたのは男の方だった。裕奈は目を開けて驚いている。
裕奈たちを取り囲んでいた男たちも色めき立つ。何が起こったのか理解できなかったのだろう。
しかしアキラは見た。男性がパンチを片手でいなし、不安定な男の軸足を蹴って倒したのを。
「―――どうしてここにいるのかな? まだ登校には早いと思うのだが」
そして、何もなかったかのように男性はそう続けた。
「・・・・・・・・・・・・」
アキラは答えない。裕奈も同じだ。
どうして寮長さんがこんなところにいるのか、どうして私たちを助けたのか、色々疑問はあったが答えるほどの余裕がなかったのだ。
「―――っの野郎・・・・・・!!」
こかされた男が立ち上がり、憎しみのこもった目でエミヤを睨みつける。
周囲の男たちもリーダーが倒されたのを見て臨戦態勢ととる。
「ふざけたまねしやがって。ぶっ殺してやる!」
「―――きゃあっ・・・・・・!」
裕奈が悲鳴を上げる。
その手には刃渡り20センチほどのナイフが握られていた。
周囲の取り巻きも思い思いの得物を手にしていた。
はっきりいって絶体絶命の大ピンチである。
アキラにも裕奈にも、この状況をどうにかできるとは思えなかった。これから起こるであろう
「ぶっ殺せーーーーーー!!!」
「―――ふむ、所詮はチンピラ予備軍か。食後の運動にもならん」
アキラたちが再び目を開けたときに見た光景は信じがたいものだった。
エミヤは傷一つ負うことなく、そしてチンピラたちは全員地面に倒れ伏していたのだ。
恐怖で目を閉じて、再び目を開けるまで十秒とたっていない。
いつまでたっても聞こえないエミヤの悲鳴を疑問に思い、目蓋を開けて目に入ったのがこの光景だった。
「で、先ほどの質問なのだが、答えてくれるかね? いや、べつに無理にとは言わないが」
「! い、いえ、そんなことは。助けていただいてありがとうございました。私たちは朝練なんですけど、寮長さんこそなんでこんなところに?」
「私はただの散歩だよ。こちらに引っ越して間もないのでな、付近の散策もかねている」
「そーなんですか」
そうなのだ、と快活に笑う。
「さて、少々時間がたってしまったが、時間は大丈夫なのかね?」
それにアキラと裕奈は顔を見合わせる。
「ああ! 遅刻しちゃう! ごめん、寮長さん。また後で!」
「すみません。本当にありがとうございました」
慌しく学校へと走っていく。
アキラと裕奈が走り去っていくのを見届けた後、エミヤは倒れ伏しているチンピラたちに近づいた。
チンピラたちを両手で引きずり、路地裏の方へと運んでいく。
その顔はとっても素敵な、これ以上ないくらい
早朝の路地裏に、男たちの悲鳴が高らかに上がった。
―今日の教訓―
食べ物の恨みには気をつけましょう。
朝のホームルーム。学校での生活の始まりを告げ、生徒にその日の連絡事項を話す時間。
そのホームルームが始まる少し前。
そのクラス―2−A―はいつになく騒がしかった。
原因は朝練を終えて教室に入ってきたアキラと裕奈の話。
裕奈が今朝方ナンパに絡まれ、それを寮長―エミヤ―に助けられた話を、友人の佐々木まき絵と和泉亜子に語ったのが発端だった。裕奈に話を聞いた亜子がアキラに確認を取り、それに頷いたアキラを見たまき絵がクラス中に響くほど大きな声を上げ、何事かと集まってきたクラスメイトに裕奈が事情を説明しと、騒ぎが大きくなっていったのだ。
「へー、寮長さんって強いんだねー」
「ふむ、是非とも手合わせしてみたいアルな」
「・・・・・・」
クラスの反応は様々。素直に感心したり、なにやら熱い闘志を燃やしていたり、無関心だったり。
今の寮長に代わってから大体一週間。
ネギという子供先生と一緒にやってきたためか、白髪の寮長はその特徴的な容姿にもかかわらず、さして目だってはいなかった。しかし、それもどうやら本日で終わりのようである。
「ふっふっふっ。子供先生と一緒にやってきた正体不明の妙に強い寮長さん・・・か。いずれ白日の下に晒してやるわ」
なにやら不穏なことを企んでいる女生徒もいるようだ。
そうこうしている内に時間がきたのか、ネギが保護者のアスナ―本人は否定―たちと教室に入ってきた。
「おはよーございます」
今日も子供による子供のための授業が始まる。
アキラたちが部活を終える頃には、辺りはすっかり夕闇に染まっていた。
いつもの4人で自分たちの住居―女子寮―へと帰還する。
部活で疲れた体を休ませたい欲求が強かったが、まっすぐに自分たちの部屋には行かずに、彼女たちは寮長室の方へと足を向けていた。
アキラと裕奈は今朝のお礼を言うため、まき絵と亜子はただの野次馬である。といっても、一緒に来て欲しいとアキラたちに請われたのだから、ただの野次馬というわけでもないが。
電灯が明るく照らす廊下を進み、目的のドアの前に辿り着く。
そして思わぬ事態に軽い驚きを覚える。彼女たちの目の前のドアの向こうから、とても美味しそうな、食欲をそそる匂いが漂ってきたのだ。部活で疲れ、腹ペコで帰ってきた彼女たちにはたまらないものだった。
しばし予想外の自体に呆然としたが、気を取り直して目の前のドアの横についている呼び鈴を押す。
「なにかね?」
呼び鈴を押してしばらくすると部屋の主がドアを開けた。やはり調理中だったのか、黒い服の上に簡素なエプロンを身につけている。
ドアを開けアキラたちを見ると、思わぬ来客に目を丸くする。
「どうしたのかね、こんな時間に。見たところ学校から帰ったばかりのようだが・・・・・・」
「あ、その、実は・・・・・・」
裕奈がここに来た目的を告げる。
それを聞くとエミヤは微笑を浮かべ、たいしたことはしていない。だから気にするような事ではない、と言った。
それでは納得がいかないのか、アキラがなんとも言えないような表情をする。最近の子には珍しく、随分と義理堅い性格らしい。
それを見て取ったエミヤは、それならばと彼女たちに言う。
「なら、一緒に夕食を食べていってくれないかね? いや、少々作りすぎてしまってね。食べていってもらえると助かるのだが」
「いいのー!? やったーー!」
まき絵と裕奈は目をキラキラさせて喜んだ。いい匂いを漂わせる原因を食べてみたかったらしい。
「・・・・・・いいんですか?」
アキラと亜子は、お礼を言いに来たのに夕食まで
「勿論だとも。最近は一人で食事をする事が多くてな。少しばかり寂しいとも思っていたのだ。君たちが一緒に食べてくれると私としても嬉しい」
そう言ってくれたエミヤの言葉に甘える事にした。
「うっわーー! 美味しいーーーっ!!」
さして広くも無い、だが決して狭いわけではない室内に、少女たちの歓声が響き渡る。
エミヤはとても美味しそうに食べる少女たちを見て軽く微笑み、自分も食事のために席に着く。
一人暮らしには少々大きすぎる食卓の上に、所狭しと並べられた料理は全てエミヤの作品だ。本日のメニューは中華。日本に来てからは和食ばかり食べていたため、たまには違う物をと考えての事だ。
久しぶりだったので、ついついウェールズに居た頃のくせでたくさん作ってしまったが、それも彼女たちのおかげでなんとかなった。
本当に美味しそうに食べる少女たちを見ると、作った者としてもこれ以上の喜びはない。
自分の分のおかずを小皿に盛ると一緒に食事を始める。
・・・・・・うむ、美味しい。
料理の出来栄えに満足する。これならば、例え売り物として出しても恥にはならないだろう。
「寮長さんって、料理上手なんやなー」
亜子が感心したように呟いた。どうやら、エミヤが料理が上手だと言う事が予想外だったらしい。
「意外かね?」
「やって寮長さんってイギリスから来たんやろ? それなのに中華が上手ってのは・・・・・・」
それにまき絵たちも同意する。
エミヤという名前からすれば日本人ではあるのだろうが、イギリスに行っていたのなら和食か洋食に落ち着くのでは、と考えたからだ。
亜子の疑問に対してエミヤは、
「なに、料理はただの趣味だ。どうせ食べるなら美味しいものを食べたいだろう?」
とのこと。
エミヤ曰く、イギリスの料理は
戦闘糧食というものがどういったものなのかはわからなかったが、それでもエミヤの表情に何を見たのか、まき絵たちは素直に納得した。―――触れてはいけない話題らしい。
そういった会話を
全員が運動部なのが理由なのか、はたまた食いしん坊なだけなのか、食卓の上に置かれた料理はきれいに片付けられた。
「美味しかったー」
「ご馳走様でした。本当に美味しかったです」
「うむ、お粗末さまでした」
食後に出されたお茶を飲みながら小休憩。
アキラたちは思いがけなかったご馳走にご満悦の様子。
お茶を飲みながら団欒のひと時を過ごしていく。
時計の針が十時を回ったところで、裕奈の首がこっくりのように傾き始める。それを見たエミヤはそろそろ風呂に入って寝るようにと彼女たちにすすめた。
「そうですね、明日も学校がありますし」
「えー、もうちょっと話そうよー」
「まき絵、明日は朝練やろ。早めに寝とかへんと寝過ごすよ」
「むにゃむにゃ・・・・・・」
反応は様々だったが、結局はエミヤの提案したとおりになった。
大浴場の使用時間が過ぎていることに関しては、
「ああ、それなら問題ない。あらかじめ言って湯を止めるのを待ってもらったからな。ゆっくりと浸かって、今日の疲れを汗と一緒に流すといい」
なんとも手回しがいい。
アキラたちはただただ感心するばかりだ。
玄関まで送ってもらい、寮長室を後にする。
「寮長さん、今日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして。それと、寮長さんはやめてもらえるかな。エミヤでいい」
「それではエミヤさん。お休みなさい」
「お休みー」
「お休み、アキラくん、裕奈くん、亜子くん、まき絵くん。来たくなったらいつでも来るといい。お茶でよければご馳走しよう」
エミヤと別れたあと、4人は各々部屋に着替えを取りに行き、大浴場へと向かった。規定時間を過ぎているため、入浴しているのは4人だけだ。エミヤに言われたとおり、ゆっくりと溜まった疲れを流していく。
浴場で交わされる会話の中身はエミヤのことばかりだ。今朝聞けなかった詳しい事情をまき絵がアキラに訊いたり、エミヤの料理が上手な理由の推測をしたり。
そんな中で、ふとアキラがこんな発言をした。
「エミヤさん、かっこよかったな・・・・・・」
それはポツリと呟いただけのもの。別段、だれかに聞かせようと思ったわけではない。だがそれは、4人しかいない浴場にしっかりと響き渡った。
「なになに? アキラ、エミヤさんにホの字?」
「―――! ちがっ、そういう意味じゃ・・・・・・!」
時既に遅し。
ハッと気付いた時には、まき絵を中心に3人はおおいに盛り上がっていた。
「だから違うって・・・・・・!」
「またまたー、隠さなくていいって!」
「違うんだってば!」
まき絵たちは聞く耳を持たない。この年頃の少女たちには、他人の色恋沙汰はなによりの娯楽だろう。
話の中心となる人物にはたまったものではないが。
「大丈夫大丈夫、言いふらしたりしないから」
「だから人の話を―――」
4人しかいない大浴場。
そこに、楽しげな少女たちの声が響き渡った。