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 麻帆良に小さな先生と白髪の寮長が住みだしてから二ヶ月。春休みも後数日を残すのみとなっていた。
 麻帆良は近辺の他の地域と比べ、春が訪れるのが早い。すでに桜も咲きだし、春の訪れを麻帆良の住人に知らせていた。
 麻帆良の春の柔らかな日差しが差し込む、とある女子寮の寮長室の一角。その中央にエミヤは座っていた。目を閉じ、座禅を組んでそこに静かに佇んでいる。
 時刻は昼過ぎといったところ。生徒たちの多くは外に遊びに出たり、部活動に励んでいるころだろう。
 彼のマスターであるネギは、2−Aの委員長である雪広あやかの自宅へと家庭訪問に出かけていた。理由は聞いてはいないが、明日菜と木乃香がついて行っていた事からただの家庭訪問というわけではないのだろう。まあ、少女たちの可愛い企みに乗ったというところか。
 静かに目を開け窓の外へと視線を向ける。―――澄み切った青い空がどこまでも広がっており、雨など降る気配はどこにもない。
 エミヤはそれを確認すると、立ち上がってタンスの横に立掛けている、袋に包まれた棒のようなものを手に取った。


「あれ・・・・・・?」
 見覚えのある後姿を見て和泉亜子はその足を止めた。
 場所は海沿いの大通り。亜子は今日の部活は午前だけだったので、午後はゆっくりと羽を伸ばすつもりで街へと出ていた。一人で街を歩き回ってもそう楽しいものではないが、友人たちはこぞって部活動なので誘う相手がいなかったのだ。仕方なく、自分がいまだ知らぬ麻帆良の名所を散歩のついでに探していた。そうして街を歩き回って、今度は海沿いの店を見て回ろうとこの通りにきたところ、その後姿が目に入ってきたのだ。
 人影が見えるのはここから少し離れた防波堤の先。何か箱のようなものが足元に見え、本人は水平線の彼方を見つめている。ぱっと見には、ただ海を見てぼーっとしているようにも見える。
「何してるんやろ?」
 チラリと腕につけた時計を見る。時刻は16時少し前。この後は特に用事があるわけでもないし、この辺りで休憩を入れるのもいいだろう。
 そう考えると亜子は防波堤へと歩き始めた。


「―――フィッシュ・・・・・・」
 そこに居たのは予想通りというべきか、亜子の住む女子寮の寮長―エミヤ―だった。その服装は見慣れた黒いトレーニングウェアではなく、何処から見ても釣り人のそれだった。手には釣り竿が握られている。
 箱だと思っていたのはクーラーボックスだったらしい。フタは開いており、エミヤが先ほど釣った魚を針から外して中に放り投げていた。そして餌を付け再び糸を海へと投げている。
 いつ、どこで、だれが、どの角度から見ようとも、その姿は釣りをしているようにしか見えなかった。どことなくその顔は楽しそうである。釣りが好きなのだろうか・・・・・・?
「うむ、趣味の一つではあるな。イギリスにいる間にも時々川でやっていたが、やはり釣りは海に限る」
 話しかけるきっかけとして聞いてみたら、このような返事が返ってきた。別にこっそりしたつもりはないが、それでもエミヤは一度も亜子の方に向いてはいなかった。なのにどうやってか亜子に気付いていたようだ。突然話しかけたのに驚いた様子がまったくない。さも自然な動作で亜子の質問に答えていた。
 へえー、と頷きながら亜子はエミヤの足元にあるクーラーボックスを見た。先ほどエミヤが魚を入れていた事から空っぽでないことは判るが、一体どれほど入っているのだろうか。
「―――大漁や・・・・・・」
 中には魚が半ばまで入っていた。しかもかなり大きめの魚が中心である。クーラーボックスはかなり大きいサイズだ。空っぽでも非力な亜子では持てないかもしれない。それほどの大きさの箱に半ばまで。
 これだけ魚を釣ってどうするのだろうか。とても一人で食べきれるものではないだろう。いつも亜子たちが夕食を食べに行っているが、それでも5人だ。これだけの魚を食べきることはできない。しかもまだ釣ろうとしているのだ。
「む、それは考えてなかったな。どうするか・・・・・・」
 失敗した、とエミヤは言う。それでも釣りをやめようとはしない。その様子に亜子は苦笑いをする。よっぽど釣りが楽しいのだろう。料理をしているとき以外で見るエミヤの新しい表情だった。
「それやったらウチが幾つか貰ってもええ? 明日の朝ごはんにでもするから」
 亜子のその提案にエミヤは二つ返事で了承した。その顔には安堵の表情が浮かんでいる。・・・・・・どうやら毎日三食とも魚料理になってしまうことを危惧していたようだ。エミヤは魚は嫌いではないが、さすがにそれは勘弁してもらいたかった。
 そのエミヤの様子に苦笑すると、亜子は袋を取ってくると言ってその場を後にした。


 今日も今日とてスクープを探し、朝倉和美は自転車を走らせていた。
 かと言って、そうそう良質なスクープなどあるわけもなし。結局午前中は何も得られず、今日は学園では何もないのだろうと考えると和美は図書館島の方へと自転車を走らせた。

「んん?」
 街中を通り過ぎ、図書館島へと行くその途中。和美の視界の端に何かが見えた。
 自転車を止めて、何かが見えた方へと視線を向ける。 そこに居たのは・・・・・・
「おー、エミヤさんじゃん。何してるんだろ?」
 海の方に体を向けて立っている。
 ただぼーっとしているようにも見えるが・・・・・・
「釣り・・・・・・かな?」
 何か棒状のモノを持っているように見える。
 そして足元には箱。たぶん、間違いないだろう。
「まあ行ってみればわかるか」
 スクープの予感はしないが、エミヤさんと話をするのは楽しい。この間のピクニックで食べたお弁当は美味しかったし、どこでその料理の腕を磨いたのか話を聴いてみるのもいいかもしれない。
 そういえばエミヤさんはアキラのことをどう想っているいるのだろうか?
 アキラがエミヤさんに好意を寄せているのはなんとなくわかるのだが、エミヤさんがどうなのかはさっぱりわからない。少なくとも嫌ってはいないようだが。
「それとなく訊いてみるか」
 人の色恋話は少女にとって甘い蜜だ。それは和美といえど例外ではないらしい。
 そんな思惑は心のうちに仕舞い込み、和美はエミヤの方へと近づいていった。


「・・・・・・大漁だわ・・・・・・」
 クーラーボックスの中を覗いて絶句する。少し前に和泉亜子が言っていた事だが、それを知る術は和美にはなかった。
 そこには箱から溢れんばかりに詰まっている魚の群れが入っていた。
 もうすでに10人前とかいう次元は超えている量である事は間違いないだろう。
「―――フィッシュ・・・・・・」
 そしてこの上まだ釣ろうというのか。
 エミヤはさらに魚を釣り上げると針から外し、箱の中へと放り込んだ。
 そして餌をつけ、再び竿を振るって糸を海に垂らす。
「・・・・・・エミヤさん、釣りすぎじゃない?」
「むう、やはりそうか。いや、餌が無くなるまでと思っているのだが・・・・・・その前に箱から溢れそうだな。亜子くんが帰って来るのを待つべきか」
 そう言いながら釣竿を操る手は止まらない。
「フィッシュ」
 ピクピクと竿の先端が動いたかと思えば、次の瞬間には竿は引き寄せられ魚が宙を舞っていた。
 恐るべき早業である。玄人でもこうはいかないのではないだろうか?
「・・・・・・まあ、いいか」
 アキラのことをそれとなく訊いてみるつもりだったが、この様子ではそれは無理だろう。
 下手に訊いて感づかれたらアキラと距離を置かれるかもしれない。それでは面白くないのだ。
「―――フィッシュ」
 さらにクーラーボックスに魚が入っていく。
 いや、これはもう入れると言うよりは乗せる。もはやフタなど閉まりそうもない。
 しかしこれだけ魚を見ているとなんだか食べたくなってきた。
「ねえエミヤさん。何匹かもらえたりする?」
「別に構わんが。と言うより、そうしてくれると助かる。このままだとフタが閉まりそうになくてな」
「じゃあ取ってくるね。自転車だし、そんなに時間はかからないよ」
 その前に、
「写真は撮っとかないとね。珍しいわ、エミヤさんのその格好」
 パシャッとカメラが発光する。エミヤの釣り人姿という格好はこうしてファインダーの中へと収まった。


 部活も早めに終わり寮に居てもすることがないので、アキラは街へと出ていた。春休みの宿題というものが出てはいたが、アキラはさっさと終わらせてしまっていた。後に残すのは嫌いなのである。
「海沿いの商店街はまだ見たこと無いな」
 長いこと住んでいるので実際には行ったことがあるのかもしれないが、アキラは覚えていなかった。
 そう思ったアキラは海の方へ行くことにした。もしかしたら可愛いぬいぐるみとかがあるかもしれない。
 小さな動物が好きなアキラは、それを模したぬいぐるみも好きだったりする。


 海沿いの商店街は、中心部にある商店街よりも小さい。
 店先に並んでいるものも海産物が中心で、中学生の女の子にはあまり興味の無いものが多かった。
 その結果に少しだけがっかりする。
 あまり期待はしていなかったので落胆は少なかったが。まあ、安い魚屋を見つけただけでもよしとしよう。
 そう考えたアキラは海沿いをぐるっと回ってから寮に帰ることにした。
「あれ・・・・・・?」
 なんともなしに海を見ると、防波堤の先に人影が見えた。
「エミヤさんだ・・・・・・」
 何故こんなところにいるのだろう。
 そう疑問に思ったアキラは少し寄り道をすることにした。
 ・・・・・・うん、それだけだ。別にちょっとエミヤさんと話をしたいとか、一緒に居たいとかそんな理由じゃないぞ、うん。
 言い訳とも言えない言い訳を自分自身にしながら、アキラはエミヤの下へと歩いていった。


 クーラーボックスのフタが閉まらなくなったところで餌がなくなった。
 亜子と和美が袋を取りに行っているが、まだ時間がかかるだろう。ここは寮から遠くは無いが近くも無いからだ。
 亜子は徒歩で、和美は自転車を使っていた。到着はほぼ同時になるだろう。
 そう考えながらエミヤは、水平線の向こうへと沈んでいく夕日をぼんやりと眺めていた。
「何をしているんですか?」
 エミヤは気配を感じ取っていたので、声がかかった事自体には特に驚きもしなかった。
 ゆっくりと声をかけてきた人物の方へ向き直る。
「やあ、アキラくん。いや、実は釣りをしていたのだがね。今は亜子くんと和美くんを待っているのだよ」
「亜子と朝倉を・・・ですか?」
 アキラの声の色が少し変わる。
 それを怪訝に思いながらもエミヤは海へと視線を戻した。
「ああ。魚を釣りすぎてしまってね。お裾分けするために、袋を取りに行ってもらってる」
「そうなんですか」
 今度はほっとしたような声に変わった。
 アキラの小さな可愛らしい嫉妬心なのだが、恋愛など経験が少ないエミヤには分からなかったようだ。
 怪訝そうに首を捻っている。
「隣・・・・・・いいですか?」
 頷くと、アキラはエミヤの隣に腰を掛けた。
 夕暮れの涼やかな風が二人の頬を撫でる。
「そういえば部活はどうしたのかね? まだやっている時間帯のはずだが」
「今日は事情でプールが使えなかったので筋トレだけだったんです。それで早めに切り上げることになって」
「ああ、そういえば君は水泳部だったか。部活は楽しいかね?」
「ええ、とても。昔から泳ぐのが好きだったし、部活の仲間もいい人ばかりなので」
「そうか、楽しそうでなによりだ」
「エミヤさんは学生の頃どんな部活をしていたんですか?」
 アキラはふと気になってエミヤに尋ねた。
 そういえばあまりエミヤ自身の話を聞いたことがない。
 時折ネギと一緒になってイギリスでの思い出を語ったりするが、それより以前の話を聞いたことはなかった。
「高校のときに弓道をやっていたな。と言っても、一年でやめてしまったが」
「弓道を?」
「ああ。これでも、そこそこ上手だったんだぞ」
 にっ、と笑って答える。
 ・・・・・・夕方でよかった。
 もし今が昼間だったら顔が赤くなってしまったのがばれた事だろう。
 アキラは心底ほっとしていた。

 二人でぼんやりと夕日を眺める。
 沈みかけた日が穏やかな海に映り、幻想的な風景をかもし出していた。
「綺麗・・・・・・ですね」
「そうだな・・・・・・」
「来ない・・・・・・ですね」
「そうだな・・・・・・」
「どうしたんでしょうか?」
「分からん・・・・・・」
「・・・・・・別にこのままでもいいけど―――」
「? 何か言ったかね?」
「いえ、なんでもないです」


 亜子と和美は出るに出られない状況に困り果てていた。
 エミヤが釣りをやめて座り込んでいる。それはいい。
 だがその隣に制服姿のアキラがいるのだ。
 しかもその顔はどことなく嬉しそうである。
 知ってか知らずか、頭はわずかにエミヤの方へと傾いている。
 はっきり言って出づらい。非常に出づらい。
 かと言ってこのままここに居るのも気まずい。
 だがアキラの邪魔をするのも憚られる。
 二人はこの出にくい状況を打破してくれる第三者が出てこないものかと考えていた。



 そうそう都合のいい存在が出てくれるはずもなかった。
 散々悩んだ結果、結局二人はエミヤとアキラの下へと行くことにした。
 エミヤは二人が遅くなったことについては何も言わなかったが、それが逆に申し訳なかった。
 ただ、アキラは違った。
 別に何か文句を言われたわけではない。きつく睨まれているわけでもない。
 ただじーっと不満そうな顔でこちらを見つめてくるのだ。
 でも他にどうすればよかったの!?
 亜子と和美は不機嫌になったアキラを宥めるのにかなりの時間を要した。
 エミヤはアキラが不機嫌になったのに気づいてはいたが、何故不機嫌になったのかさっぱりわからなかった。
 鈍感、ここに極まれり。

 閑話休題

 結局、アキラの機嫌は寮についてエミヤの釣った魚を食べるまで直らなかった。
 そしてエミヤは思ったより魚料理が好評だったので、また釣りをしようとか考えていた。
 和美はエミヤたちの食事に同伴し、エミヤの作った料理の数々を写真に収めていった。
 まき絵と裕奈はどこか疲れた様子の亜子を見て、不思議そうに頭をかしげていた。
 春休みはもうすぐ終わりを迎える。

 かもしれない。