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 早朝、まだ通勤時間までにはかなり時間がある時刻。
 朝日が海の向こうに見え隠れする、朝と夜の狭間の時間。春になったとはいえまだまだ空気は肌に寒く、コートに包んだ体をブルっと震わせる。
 チッと言う舌打ち。
 コートから煙草を取り出し、口にくわえ火をつける。23になった頃から吸い出したそれは、肺の中を白い煙で満たしていく。軽いイラつきと一緒に紫煙を吐き出し、目の前の光景に目を向ける。
 そこでは制服に身を包んだ警官たちが、黄色いテープの向こう側で現場検証をしていた。それは特に珍しい光景ではない。昨今は事故や犯罪など増える一方であるし、それの調査に自分が行くのもあたりまえの事である。
 いつも通りの、いつもと変わらない刑事としての業務。しかし、そこには確かに普段の調査とは違うモノが存在していた。

 緊急の呼び出しがあったのは今よりも3時間ほど前だっただろうか。通報を受けたヤツが、いたずら電話じゃないか、と言ってたのを覚えている。―――それもそうだろう。誰もこんな事態など想像できるはずがない。実際目の前にそれがあると言うのに、その現実を信じる事ができないのだ。
「大宮刑事。重傷者2名、病院に搬送いたしました」
「わかった、じゃあお前も現場検証に行ってくれ」
「了解しました・・・・・・しかし、どんなヤツらがこれをやったんでしょうね・・・・・・」
「――――――」
 どんなヤツら・・・か。確かに単独でやったとは思えない光景だがな。まあ、俺としては犯罪の芽が一つつぶれたのだから、どこの誰がやったのでも構わんがな。
 ここの事務所はこの辺りのヤクザの中では、だいたい中堅に位置するくらいの規模だ。表向きは運送業を営んでいたが、裏ではチンピラどもを使って麻薬や合法ドラッグなどを売りさばき利益を得ていたのだ。あいにくと、証拠がなくて一度も捕まえられはしなかったが。
「・・・・・・俺は警官になってから結構経ちますけど、あんな現場は初めてですよ。いったい、どうやったらこんなことが出来るんでしょうね」
「―――俺だって、こんなのは初めてだよ」
 まあ、それはどうでもいい話だ。今ではもうそのことで頭を悩ます事などない。なにせ―――
「それよりも気をつけろ。いつビルの残り、、、、、が崩れてくるかわからんからな」
 事務所そのものがな無くなりつつあるのだからな。

 思えば奇妙な事だった。たとえ大勢の人間がやったのだとしても、これほどの惨劇は起こす事はできまい。深夜とはいえ、都会も都会。日本の首都の町の真っ只中なのだ。人通りだってそれなりにある。
 それなのに―――建物が丸ごと一つ崩壊、、、、、、、して誰一人として気付かない、、、、、、、、、、、なんて。
 そんな事がありえるのだろうか。いや、ありえるはずが無い。少なくとも、人間に行えるような事ではない。やれるとすれば、それはすなわち・・・・・・
「化物・・・・・・か」
 重傷者2名の中で軽傷―それでも両手足の粉砕骨折ではあったのだが―だった方の男が漏らした言葉だ。
 化物。
 なるほど、それはとてもらしい、、、 言葉だ。これほどこの状況にしっくりと来る言葉はないだろう。
 化物。人間の倫理など持たず、人間の力を持たず、人間の心を持たず。ただ化物。化物としての倫理を、力を、心を持っている存在。人間にやれないのであれば、ソレ、、がこれをやったに違いないだろう。ビルを一つ崩壊させ、重傷者―いや、この場合は生存者か―2名、行方不明者、、、、、26名を生み出したモノ、、が。
「―――一度、その面を拝んでみたいものだな」
 短くなった煙草を捨て、大宮はテープの向こう側へと歩き出した。



 エミヤが手帳を閉じると、メレムは食卓に着いたまま声を上げた。
「お嬢さんたち、ちょっとこっちを向いてくれるかな〜?」
「?」
「なんやろ?」
「だからお嬢さんって・・・・・・」
「まあまあ、そんな細かいことは気にせずに」
 亜子たちは首を捻りながらもメレムの方へと体を向けた。
 エミヤの雰囲気が変わったのには気付いていない。ピザに夢中になっていたのもそうなのだが、やはりエミヤが感情をうまく制御した事が大きいのだろう。まあ、メレムは気付いていたようだが。
「僕の目を見てくれる?」
 言われて、その通りにメレムのダークブラウンの瞳を見た。そこで終了。
 亜子たちは意識を失い、ゆっくりと食卓へと倒れた。さっと、ピザを少女たちから庇うのを忘れないのは、さすがと言うべきなのか。メレムは意識を失った少女たちを尻目に、エミヤに話しかける。
 メレムが行ったのはいわゆる催眠術ヒュプノスと言うもので、それも魔眼と呼ばれる高等技法である。魔力を乗せた視線を対象の眼球に叩き込むことによって、眼球から神経を通り、直接脳へと術をかける。便利な分効果は小さいのだが、それでも一般人を眠らせるくらいは造作もなかった。
「さて、じゃあ裏の世界こっち側の話を始めようか」
 亜子たちを奥の和室の布団に寝かせて、エミヤが戻ってきた。
 メレムの気配が変わる。
 少年らしい気配は失せ、その代わりに何か得体の知れないモノの気配が生まれる。人間以外の、いわゆる化物と呼ばれる存在の気配だ。
「彼女が攫われたと思われる時刻は今より2時間ほど前。場所は新宿の、ちょっと大通りから外れた場所だね。経緯は知らないけど、チンピラっぽいヤツらとそれの兄貴分かな。それが彼女を攫っていったようだよ」
 チリチリと空気が焼ける。
 メレムは、それこそ世間話をするような軽い口調だ。エミヤもそれを黙って聞いている。にもかかわらず、空気が肌に痛い。なんの備えもせずにいきなりこの場に置かれたとしたら、その空気に息が止まるだろう。
「場所はここから東に40、北に28と言ったところかな。なかなか大きな事務所だね。周りにも大きなビルがあるけど、それよりも少し大きい。あの辺りじゃ一番大きいんじゃない? よっぽどあくどい事をしてるんだろうね。まあ、そんな事は僕としても上司うえ としても興味ないけどね」
「――――――」
「ん? 本題を早く言えって顔してるね。はは、英霊エミヤも元は人と言う事か。一緒に暮らしてて情でも移ったのかな? 実に君らしい、、、、
「―――メレム」
 空気の熱が上がった。エミヤから発せられる怒気に、メレムは軽く息を飲む。
「―――はいはい、わかったよ。話すからそう起こらないでよ。心臓に悪いなぁ」
 が、すぐに平静を取り戻しいつものおどけた表情に変わる。
「さて、じゃあ依頼の内容を話すよ。と言っても、そんなに小難しい話じゃあない。死徒を一匹始末してもらいたいんだ」
 メレムは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、エミヤの前へと差し出した。
「規模としてはまだまだ小さいものだね。力も弱いし、取り立てて特殊と言うわけでもない。―――いや、特殊と言えば特殊なのかな? 本来、単体で行動するはずの死徒が協力し合って一つの町に巣くっているんだから。最初は気付かなくてね、代行者を4人も送ったっていうのに1人も帰ってこなかったよ。最近は優秀な人材が少ないっていうのにね」
 まったく困ったものだね、とメレムは溜息をつく。
「エミヤにはその片割れの始末を頼みたい。僕はもう片方を処理しに行くからさ。場所はここ・・・・・・おや、ちょうどそのが攫われたところみたいだね。じゃあ報酬はその娘と言うことで。囚われたお姫様を救いに行くなんて、まさに正義の味方みたいじゃないか」
 クスクスと、うまい事を言ったようにメレムは笑った。
「―――はいはい、そう眉間にしわを寄せない。別にその娘が攫われた事に関して、僕は関与して無いよ。まあ、面白いタイミングではあると思ったけど。面倒くさいことを押し付けられるから、僕としてはありがたかったかな」
 片方を始末してる間に、もう片方に逃げられたら困るんだよね。始末書だって書かなきゃならなくなるし。
 本音を隠そうともせずにメレムはそう語った。
「ああ、そうそう。女の子の身の安全は今のところ保障しとくよ。狙ったわけではないけど、利用した事には違いがないからね。死徒や死者が直接手を出そうとしない限りは彼女の身は安全だよ。僕の友人たちがやけに協力的でね、みんな彼女を見守ってる」
 メレムは残りのピザを口にほおばった。
「で、どうする? まあ、訊くまでもないと思うけど」
「無論だ―――まったく、君は本当に人が悪い」
「フフ、それは違うよ。僕は人が悪いんじゃない。ただ・・・悪魔なだけだよ」

 エミヤが死徒の潜伏場所へと走るのを見て、メレムは行動を開始した。今回の死徒は2体で一組。同時に滅ぼさねば、片方に逃げられる。
「突入は同時じゃないとね」
 今頃、死徒どもは安心しきっている頃だろう。代行者を撃退してから二日しか経っていない。次が送られてくるまではまだ時間があると思っているはずだ―――まったく、愚かな事だよ。成り立ての分際で、少しばかり強い人間を退けた程度で慢心し、増長する。自分たちに敵うモノなどいないと思い込み、逃げようともせずにその場に居座る。実に不愉快だ。
 だが、それも今夜まで。アレらは今夜破滅する。一つの悪魔と、一人の“正義の味方”によって。
「ハハ―――他者を救うためならば悪魔の存在すら容認する、己の信念が打ち砕かれようとも己の理想の為に自らを犠牲とする。ただ一つの約束の為に己の存在全てをかける一人の人間。いや、人間だったモノ、、 。フフ・・・・・・だからこそ僕は君に惹かれたのだろうね」
 人間でありながら、人間ではありえない在り方をする存在。どこまでも人でありながら最後まで人の在り方をしなかった存在。全てが偽者でありながら、その偽者を持ってして本物に打ち勝つ存在。
「長い間魔獣やってきたけど、人間の友達なんで初めてだよ。彼女は友達と言うよりは同僚だしねぇ」
 つと、カレー好きの同僚の顔を思い浮かべる。彼の主に対しては嫌な顔をする彼女だったが、自分には時々ピザを奢ってくれる気のいい同僚だ。結構前に日本に来てたけど、件の蛇は滅せたのかな?
 まあ、彼女の問題だから手も口も出さないけどね。
「しかし・・・・・・次にエミヤに会ったら僕、殺されちゃうかな?」
 彼には一つだけ嘘をついた。攫われた彼女の身は今、限りなく危険な位置にある。下手をすれば朝日を拝む事はできず、最悪の場合は死肉を喰らう死者と化すだろう―――まあ、可能な限り阻止するけど。今回は目的が目的だから、ひょっとしたらうっかり死んじゃうかもしれないね。
「まあ、僕は復活できるからいいけどね。彼女には悪いけど、風車は止まっていたらつまらない」
 そう、止まっていてはつまらない。動いているからこそ、眺める価値がある。
 自らは動こうとしない風車ならば、自分が風となって回してやろうではないか。
「エミヤの本性を見た彼女がどうなるか気になるところだねぇ」
 拒絶するのか、それとも受け入れるのか。それとも、それとも・・・・・・?
「うん、実に楽しそうだ。それを自分の目で見られないなんて、残念でならないねぇ」
 まあ十中八九拒絶するだろうけど。普通の人間にアレを理解できるはずがない。そして人間は自分に理解できないものを受け入れる事などできはしない。
「でも・・・・・・」
 友人たちがえらく気に入っているから気になって観察してみれば、彼女なかなか面白い性質をしているじゃないか。これはひょっとしたらひょっとするかもしれないね。
 まあ、だからこそ彼女をあの状況に置いたのだけど。
「さてさて、どうなることやら」
 今夜は楽しい夜になりそうだ。
 友人たちがお世話になっていることだし、できる事なら良い方へ進展してほしいねぇ。
 月明かりが路面を照らし、その端にいたメレムの顔を浮かび上がらせた。その顔は、これから起こるであろう出来事に想いを馳せ、楽しそう笑みを浮かべていた。